甲府湯村温泉郷は、山梨を代表する由緒ある温泉郷です。
808(大同3)年に、弘法大師が杖で大石を寄せた場所から温泉が湧いた「杖の湯」伝承や、鷲が傷を癒すために舞い下りた「鷲の湯」伝説が今に伝わり、武田信玄公のかくし湯としても知られています。
また、葛飾北斎の「勝景奇覧 甲州湯村」に描かれました。
御岳昇仙峡は、甲府市の北部に位置する渓谷です。『日本の特別名勝』に指定されており、〝日本一の渓谷美〟と称されています。 長い歳月をかけて削り取られた花崗岩の断崖や、奇岩・奇石と、清澄で豊富な水の流れをみることができます。渓谷沿いに整備された遊歩道では、四季折々で変化に富んだ渓谷美を間近で楽しめます。
2体のご本尊(秘仏808年建立・開扉仏1050年建立)のうち、国の重要文化財である地蔵堂に安置されている石造地蔵菩薩座像(県指定文化財)が耳を開き、善男善女の願いを聞き入れ、厄難から逃してくれるとされ、大祭当日は多数の参詣者で賑わいます。
2体のご本尊(秘仏=808年建立・開扉仏=1050年建立)のうち、国の重要文化財である地蔵堂に安置されている石造地蔵菩薩座像(県指定文化財)が耳を開き、善男善女の願いを聞き入れ、厄難から逃してくれるとされ、大祭当日は多数の参詣者で賑わいます。
福田山塩澤寺は、808(大同3)年に弘法大師(空海)が開山し、955(天暦9)年に空也上人によって開かれ、後に大覚禅師(蘭渓道隆・1250年頃)により再興されたと伝えられています。
山門の脇には、「舞鶴の松」と呼ばれる県指定天然記念物のクロマツがあり、高さはありませんが、横に伸びる枝は30メートルにも及びます。
地蔵堂の裏手には、岩盤が50センチほどくりぬかれ、「首浮き地蔵」が祀られています。首と体が離れていて、願いごとがかなうときは、首が軽く浮き上がるといわれています。古くから地元の信仰を集めている場所です。
塩澤寺のとなりに「旅館弘法湯」があり、その裏手に杖の湯跡があります。808(大同3)年、弘法大師が東北巡行の帰りに信州から甲州に入り、近くの厄除地蔵に泊まりました。道路の真ん中に大石があり、旅人が通行に困難な状況でした。そこで大師が呪文を唱えながら杖にて寄せたところ、温泉が湧き出したといわれています。
塩澤寺のとなりに「旅館弘法湯」があり、その裏手に杖の湯跡があります。
808(大同3)年、弘法大師が東北巡行の帰りに信州から甲州に入り、近くの厄除地蔵に泊まりました。道路の真ん中に大石があり、旅人が通行に困難な状況でした。そこで大師が呪文を唱えながら杖にて寄せたところ、温泉が湧き出したといわれています。
「杖の湯」「弘法杖」といわれ、現在にその名残があります。旅館街ができる以前は、この杖の湯・鷲の湯・谷の湯・産甫ノ湯が銭湯という形で庶民に愛されていました。この3軒の内のいずれかが、葛飾北斎によって描かれているといわれています。
八の宮跡は、悲劇の皇子・良純親王の住居跡である松元寺を出て、左折すると、「旅館明治」があります。ここは、江戸時代、徳川家光の治世(1643年)に良純親王が流され、その住居があった場所です。
八の宮跡は、悲劇の皇子・良純親王の住居跡である松元寺を出て、左折すると、「旅館明治」があります。ここは、江戸時代、徳川家光の治世(1643年)に良純親王が流され、その住居があった場所です。
良純親王(八の宮)は、御陽成天皇の第8皇子です。天皇の怒りにふれて、都を追われて甲斐の国に流されました。一説には当時「湯島村」と呼ばれていた湯村は(湯ノ島とも湯志麻とも伝わっています)、「島」という字があると島流しのようであるから、この時良純親王を気遣って「島」をとって「湯村」に改名したともいわれています。この場所や興因寺(甲府市下積翠寺町)に住み、いくつかの詩歌を残したといわれています。
『鳴けばきく きけば都の 恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす』
旅館明治の南となりに、共同浴場「鷲(わし)の湯」があります。この名称は、湯村温泉郷の次のような伝説からとったものです。町民に親しまれる公衆浴場として開放されていました(現在は営業しておりません)。
旅館明治の南となりに、共同浴場「鷲(わし)の湯」があります。この名称は、湯村温泉郷の次のような伝説からとったものです。町民に親しまれる公衆浴場として開放されていました(現在は営業しておりません)。
昔、この辺りは起伏した丘や沼地で、一面に萱草の生い茂った荒野でした。あるとき一羽の鷲がどこからともなく飛んできて、日に二、三度萱草の中に姿を隠し、やがてどこかへ飛び去りました。
こんなことが七日ばかりも続いて、それからのちは、鷲はさっぱり姿を見せなくなりました。人々は不思議に思って、萱草の辺りを探して見ますと、かすかに白い湯気が立ち上るところがあったので、そこを掘り返すと、熱い湯がほとばしって湧き出しました。人々は喜んで湯小屋を建て入浴してみると、ちょうどよい湯加減で、諸病に効くことがわかりました。
病気の鷲が湯気につかり、全快して来なくなったことから、人々はそこに温泉が湧くことを教えてもらったわけで、この鷲は山の神様の現れであろうと、一社を建てて湯権現に祀り、その山を湯村山と名付けました。湯村には今でも「鷲の湯」という名の古いお湯があります。
共同浴場「鷲の湯」の南の山すそに、湯谷神社(ゆやじんじゃ)があります。境内には、石鳥居、石の階段、庚申塔、石祠、大木などが、たくさん残っています。次のような湯権現の伝説が残っています。
共同浴場「鷲の湯」の南の山すそに、湯谷神社(ゆやじんじゃ)があります。境内には、石鳥居、石の階段、庚申塔、石祠、大木などが、たくさん残っています。
次のような湯権現の伝説が残っています。
むかし、鳥居の手前、鷲の湯の南に杉の大木がありました。毎年、大晦日の夜12時から元旦の朝6時までは、湯の神様が入浴するので、人は湯に入ってはいけないきまりでした。ところがある時、そんなばかな話はあるか、といって湯に入った男がいて、翌朝、大杉にはりつけになって死んでいました。
そののちは、さらに厳重にこのきまりが守られたようです。
水道みちを北西に向かっていくと、道沿いに家が建ち並ぶなか、こんもりとした加牟那塚古墳があります。
金塚、あるいは釜塚ともいわれ、高さ7メートルあまり、直径40メートルの大きさは、6世紀後半の東日本で規模の大きなものであり、県文化財に指定されています。
塩澤寺の地蔵堂の前から、南アルプスを望むとこの加牟那塚古墳が住宅地のなかから、頭を出している姿が見えます。石室は、横穴式石室で人間が歩ける大きさがあり、入口から中を見る事ができます。天井となっている数個の大きさの石には驚かされます。
加牟那はカムナと読みます。名の由来については、高句麗(現在の朝鮮)の渡来人の書くカタカムナ(現在のカタカナ)が語源である、カムナとは高句麗の神の名である、など諸説あります。
湯村山の西の遊歩道沿いにある2つの古墳は、それぞれ地蔵古墳、こうもり塚と呼ばれています。
湯村、羽黒、山宮、千塚地区には、たくさんの古墳があります。千塚は、「たくさんの古墳」を意味する地名です。旧敷島町の東部から千塚、湯村を通って石和温泉の手前横根までの北部山岳地帯は、日本で2番目に積み石塚古墳が多い場所です。
ここ湯村山の西側にある古墳は、6世紀頃の形態です。ぽっかり開いた入口が石室で、この奥に死者を埋葬しました。今では桜が植樹され、3月下旬~4月初旬に満開の桜の花が楽しめます。
湯村温泉郷の旅館から、4車線の北バイパス沿いを湯村山方面へ北に入ります。湯川を渡り、湯村山に登る手前を右折すると、駐車場の真ん中に、こんもりとした万寿森古墳があります。
年代は6世紀前半、甲斐国最大の古墳といわれる、古墳時代後期の横穴式石室を持つ円墳です。遠くから見ると、まんじゅうのような形をしており、その名が付いたともいわれています。
江戸時代には火薬庫として使われ、煙硝蔵ともいわれていました。墳丘は、現在松林となっています。